おがわみのるのプロフィール

 

 

生い立ち(楽しい少年時代→暗黒時代→夜明け時代)

1979年生まれ。血液型はA型。3人兄弟の末っ子。東京23区の世田谷が生まれ故郷。小さい頃は「家がいっぱい建ってて遊ぶところが少ないなー」と不満を持ち育つ。大学生ぐらいから「お店がいっぱいあって便利だなー」と思いはじめる。

順風満帆だった小学生中学生時代

とにかくスポーツが大好き!時間がある限り色々な習い事をさせてもらいましたね。日の丸の左にいる飛び出たのがわたしです。空手は兄が習い始めたのをきっかけにはじめました。とても面白かったので頑張って「初段」になりました。

少年野球もやらせてもらいました。この頃の将来の夢は「プロ野球選手」でした。

サッカーも始めました。幼稚園の時に水泳を始めたので「サッカー、野球、空手、水泳」4種目となります。私は一度習い事をはじめると長続きするほうだったので、しばらく続けました。

中学になると「陸上」をはじめました。中学ではバスケもやっていたので、これで「野球、サッカー、空手、バスケ、陸上」の5種目となります。中学の時は塾にも通っていたので、とにかく忙しかったですが毎日がとても楽しかったです。

暗黒の高校時代

高校は公式野球部に入りました。入学した高校も甲子園に出場できる可能性があるところを選びました。甲子園に出場し、プロ野球のスカウトから指名されると信じていました。しかし、ここから私の苦悩の日々が始まるのです。

入部した野球部の部員は100名以上。年間わずかしかない休みの中、自主練も含めほとんど野球漬けの毎日でした。「きっとこの苦しみを乗り越えればレギュラーになり甲子園に出れる!」と信じて。しかし、入部して半年ほどしたある日、自主トレ中に「疲労骨折」してしまいました。明らかなオーバーワークです。そのころの私は「練習すればするほど良い」と思っていました。

同級がどんどん上手になる中、自分は雑用と病院通いの日々。そして、晴れて「疲労骨折」が完治したと思いきや、再度「疲労骨折」になってしまいました。前回より練習量を抑えたにも関わらず。この時高校2年。幼少からの夢だった「プロ野球選手」を諦めなくてはいけない時期がきたと思いました。

それでも2度目の疲労骨折が完治し練習に復帰した時には、5番手のキャッチャーでした。甲子園に行ってもアルプススタンドですね。ブルペンにも入れません。しかし、夏の甲子園予選まであと1年ありましたから、なんとか頑張ってレギュラーを目指したわけです。当然オーバーワークしないように注意しながら自主練もしました。

そして、またもや「悪夢」が襲いました。なんと「椎間板ヘルニア」になってしまったのです。医者からは「手術しても完治はしない」通告され目の前が真っ暗になりました。これまで何をしてもそこそこの成績を残すことができた自分にとって初めての「挫折」でした。悔しくて毎日泣いてました。その後、原因不明の発熱が3週間ぐらい続きました。おそらくストレスだったのでしょう。高校2年の春休みは熱でずっと家で横になっていました。

苦悩の大学生時代

高校での挫折以降、ぽっかり空いた穴をふさぐことができず、何をやっても中途半端になってしまいました。本当はプロ野球で活躍しているはずなのにと。本当に苦しかったですね。不完全燃焼の気持ちをどこにもぶつけることができませんでした。

就職活動をしないという選択!

就職についてはかなり考えましたね。自尊心が「ゼロ」に近い状態でしたから、頑張って就活している友人を見ていると「うらやましい」と思ってました。このころは就職氷河期の終わり頃でした。世間はまだまだ不況。でも私はというと、高校の時の挫折をまだ引きずっている状況。世間が就活モードでも私は全く動くことができなかったですね。

新たな夢が見つかる!

そのころの私はひたすら「新たな夢さがし」をしていました。色々なことにもチャレンジしました。それでも夢は見つかりません。ワクワクするようなことがなく大学3年になってしまっていました。ある時、ネットサーフィンをしていたところ、海外で働く日本人の記事を見かけました。アメリカで働く20代の男性でした。今でもよく覚えていますが、その働いている男性がとてもキラキラしていました。「これだ!」と思いました。「海外渡航×海外就職×海外生活」にとてもワクワクしました。そこから、英語の勉強、渡航費を稼ぐためのアルバイト生活が始まりました。

大学生で月給30万円

渡米資金の為に4つのアルバイトをかけもちしました。16時~21時までお寿司屋でバイト。22時から6時まで駐車場でのバイト。仮眠して学校へ。それ以外にも短期の仕事をこなしながら月給30万円を稼いでました。あまりの過酷な生活が続き、髪の毛がかなり抜けて一部禿げてしまいまいた。今でも残ってますよ。しかし、大学3,4年の2年間では目標金額に届きませんでした。親から無利子で借りてしまいました。帰国後働いてちゃんと返しましたよ。

生い立ち(海外生活編)

いよいよ夢にまでみた海外生活がスタート!とてもわくわくして渡米をしました。私が住んでいたのはワシントンDCです。

エレメンタリーパブリックスクールでの研修生として

簡単に言うと、研修生として無給で働かせてもらいました。いきなりお金をもらうのは非現実的ですね。「EWS」という学校なのですが、幼稚園~小学校までの幼小一貫校です。日本では珍しいですよね。私はそんな一貫校で色々やらせてもらいました。

研修生として担当したこと
①体育の授業のアシスタント
②アフタースクールのアシスタント
 ※両親が迎えにくるまでの様々なプログラム。学童みたいなものですね。
③屋外学習のアシスタント
 ※空手をやっていたのを校長先生が知っていたので、ボディーガード役として。
④テコンドークラスのアシスタント
⑤ランチの手伝い
⑥ひたすら掃除や雑用など

黒人居住区に住む

住居については校長先生が月200ドルで地下室を貸してくれました。あまりお金がなかったので仕方がないですね。住んでいたところは黒人居住地域でした。校長先生も黒人。校長先生の姪っ子も黒人。まあ贅沢は言えないですね。そんなこんなで念願のアメリカ生活がスタートしたのです。

アメリカで働いて人生が変わった3つの出来事

①仕事に対して「とてつもなくドライ」
とにかく職員の皆さんは、退社時間になったらすぐに帰ります。その時の退社時間は15時だったのですが、30分も経過したらアフタースクールの先生以外はほとんど帰宅。その帰り方がとても気持ちがいい。ダラダラせず自宅へ一直線です。男性も女性も同じでした。言葉では言い表せないのですが、とても退社しやすい雰囲気でしたね。

②男性の家事・育児ぶりが半端ない!
アメリカの男性の家事育児に関する考え方が半端ないと思いました。私が知らないだけかもしれませんが、職員同士で仕事後に飲みに行った方はひとりもいませんでした。私の歓送迎会もありませんでした(笑)。自宅に帰り何をしているのか男性職員によく聞きました。

男性職員が帰宅後にしていることトップ5!
①子供と遊ぶ
②子供の宿題の手伝い
③芝刈り、庭のメンテナンス
④家族でテレビを一緒に見る
⑤家族でイベントの準備をする(ハロウィーン等)

③ハングリーさが半端ない!

男性も女性も等しくハングリーな方が多いです。アメリカの首都ワシントンでさえ、多くの人が「より良い人生を」と望んで生きていました。少しでも条件の良い会社があればすぐに転職をめざして活動します。なぜかとういうと、アメリカでは格差が日本以上に大きく、多くの人が現状に不満を持っているのです。職場で仲の良い職員の友人は、母国後のスペイン語、英語のほか、フランス語、日本語を学んでいました。少しでも良い条件の仕事のためです。

仕事中は終業時間までに帰宅できるように仕事をし、帰宅後は家族人として汗を流したり楽しみ、余暇はひたすら自己研鑽。日本人も勤勉だと思いますが、アメリカ人は、仕事、家庭、自己研鑽をどれも同じぐらい重要なこととして大切にしているのです。

1年で帰国することにしましたが、日本ですぐに就職せずにアメリカで来れて本当にラッキーでした。

日本で就職(再び暗黒時代突入)

帰国後はスポーツクラブに就職をしました。とにかく最初に勤める会社は最低でも10年頑張ってビジネススキルを身につけようと考えていました。8年目で一部上場企業の課長代理までになりました。

しかし、店舗運営というのは非常に苦労が多い職場です。社員が少なく、アルバイトばかりの人員構成。しかも女性比率が8割。帰宅は毎日25時過ぎ。唯一の休みの休館日にも研修やら会議の予定が入ってくる始末。妻も出産後ノイローゼ気味になってしまいました。

仕事で1日の大半を消耗、家庭は母子家庭状態、余暇はビールを飲んで過度なストレスを緩和するという最悪の状態に。

腹膜炎併発で緊急手術

仕事がとてつもなく忙しい中、1ヵ月近く腹痛が続いていました。病院に行っても「膀胱炎」との診断。薬を飲んでも改善せず。ある夜、熱が39℃を超え腹部の激痛もおさまらず、妻に話し自転車で総合病院へ行きました。診断結果は「虫垂炎からの腹膜炎併発」。すぐに緊急手術することになってしまいました。膀胱炎が「誤診」だったのです。医者からも「腹膜炎併発の死亡リスク」を話されました。「あーこれで死ぬのかなあー」と本気で思いました。

それにしても、医者からは「よくこの状態で自転車で来たね!」と驚かれました。いつ意識を失ってもおかしくない状況だったそうです。腸の中から内容物が外に飛び出し炎症を起こしていたのです。人工肛門になる可能性も高いと言われていました。

手術は成功。術後も良好で、幸運にも後遺症もなく2か月で社会復帰することができました。

1部上場企業の課長代理を退職決意!

腹膜炎騒動もあり、もうこの会社で働くのは無理だろうと観念し退職を決意。支配人昇格(本社課長待遇)まであと3年ぐらいと営業部長から聞いていました。課長代理でも年収670万円程でした。支配人になれば800万円を超えるだろうと聞いていました。しかし、それ以上に身体が持たないだろうと考えていました。非常に悔しい選択でしたが、退職することにしました。

都会から高知へ移住

生まれも育ちも東京23区だった為、田舎にものすごく憧れていました。私の妻の出身が高知県だったので、25歳の時から退職まで5回ぐらい高知へ行きました。初めて高知に行った時のことは今でもよく覚えています。東京23区育ちとしてはものすごーく感動しました。一番感動したのは、初めて妻の実家に挨拶しにいったとき、16時ころ家に到着したのですが、家に入るなり3分後には酒宴。そして、30分後には手に蕁麻疹が!お酒は自分では強いと思っていたのですが、高知のいごっそうにたった30分でつぶされてしまったのです。神奈川にいる時は、お酒が強い人が少なく、しかも、お酒好きも少なかったので、とても不満でした。同僚の男性が1杯目からウーロン茶、カルピスサワーでしたから。なので、お酒が飲めないと大変な高知県と言われますが、私にとっても「最高!!」と思っていました。

ということで、妻に相談し、退職を機に妻の実家の高知県へ移住することになりました。当然、妻の実家にお世話になります。マスオさんですよ。

高知の食品問屋へ就職→2年目に営業課長に昇進→3年目に退職!

前職のスポーツクラブに続き、食品問屋の営業マンになりました。この会社では高知県のことを色々勉強させてもらいました。決して嫌で退職を決意したわけではありません。高知県の現状を目の当たりにしたからです。

このまま食品問屋で仕事をしても、いつか人口減少や生産者の減少等により、ビジネスが難しくなるだろうと感じました。それが5年後なのか、10年後なのかはわかりません。そしてもうひとつの理由として、営業の仕事は出張が多くなかなか息子と遊んだり、家事をする時間が持てなかったというのもあります。アメリカで感じた「男性の生き方や働き方」が経験として身体に残っていたのです。どうしても仕事だけに生きることができなかったのです。

フリーランスになることを決意!

37歳の3月にフリーランスとなりました。さいわいにも18歳の時から資産運用をしていたので、多少稼ぐ実力はありました。しかし、営業課長として働いていた時の年収を稼げる自信はまだないです。

とにかく、まずは自分の限界にひとりでチャレンジをしてみたいと思っています。アメリカだからできて日本に出来ないわけがないと思います。そして、多くの同世代の男性に、新しい道へ進むチャレンジをしてほしいと思います。まずそれには私自身がチャレンジし、きちんと稼げるようになり、その稼ぎ方も含め、皆さんにお伝えしていければと思っています。

一緒に夢を叶えましょう!

定年まで我慢して会社人生を過ごすのではなく、私と一緒に30代のうちに飛び出し、もっとダイナミックな人生を歩んでみませんか。ぜひ「私の限界に挑戦してみたい100のリスト」をご覧ください。100歳までに100個の限界を突破したいと思います。

私の大好きな言葉「挑め!己の限界へ!」
さあ、一緒に己の限界に挑戦しましょう!

最近の記事

  1. FXで月10万円稼ぐ

    アメリカのデフォルトによる世界金融危機のリスク
  2. FXで月10万円稼ぐ

    いつまでもお小遣い3万円でいいんですか?
  3. FXで月10万円稼ぐ

    FXで儲ける仕組み「売買差益」
  4. ブログで月10万円稼ぐ

    わかやまゆうやさんのブログコンサル「コスパ良すぎ」
  5. 活力みなぎる身体づくり

    トレラン係長!山下登の「9回の裏人生サヨナラ本塁打の巻き」
PAGE TOP